日本を急速に近代化させた「明治維新」とは何か?“流れと概要”をざっくり解説!

明治維新とは、倒幕から明治時代初期の日本が行った一連の改革(革命)のこと。

日本は、明治維新によって近代化を果たし世界有数の大国へと成長を遂げました。

明治維新がなければ今の日本はありません。

なぜ何百年も続いた江戸幕府は終わりを告げ、明治維新へと繋がったのか?明治維新へと繋がったきっかけや明治維新による改革など、明治維新についてざっくり解説していきたいと思います。

明治維新のきっかけ

1840年、中国・清とイギリスとの間で阿片戦争(あへんせんそう)が勃発します。

当時、ヨーロッパでは紅茶が大流行し、イギリスは清から大量の茶を輸入していました。そのためイギリスは清に対して大幅な貿易赤字となり、国産品を輸出しても追いつきませんでした。

そこで麻薬である阿片を輸出します。清は阿片の輸入を禁止していましたが、密輸入を止めることができず、貿易赤字、経済危機に陥りました。そこで阿片を販売した者、使用した者を死罪とする法律を作ったことから、イギリスの攻撃を受け、阿片戦争が始まったのです。

清は敗北して1842年南京条約に調印することになり、イギリスは香港島を占領しました。

日本には直接関係のない阿片戦争でしたが、清の敗北をきっかけに、鎖国中の日本にも外国船が度々やってくるようになりました。そして、1853年にペリーが来航します。

鎖国中だった日本は、外国船やペリーの来航によって「自分たちも植民地化される恐れがある…。」そんな危機感から、さまざまな改革が行われた明治維新へと繋がっていったのだと思います。

江戸幕府の終焉と明治政府の発足

ペリー来航以降、攘夷思想が広がり、大老であった井伊直弼が幕府に反対するものを処罰する「安政の大獄」が起きます。

しかし、それに怒った水戸浪士らは井伊直弼を桜田門外で暗殺します(桜田門外の変)

幕府の権威は失墜し、反幕府思想が蔓延していきました。そして、1868年、敵対関係であった薩摩藩と長州藩が同盟を結んだことによって薩摩藩と長州藩の「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で戦いが始まり(戊辰戦争)、新政府軍が勝利しました。

265年続いた江戸時代の徳川幕府による大政奉還を受け、1868年明治政府が発足しました。

海外から遅れをとっていた日本

江戸時代に日本はコメを中心とする農業経済でした。

一方海外では、強い工業力を背景とした近代資本主義経済になっていました。

また日本は幕藩体制であり、それぞれの藩が、ひとつの国のような状態。旅をするときには通行手形が必要でしたし、隣の藩に自由に住むことはできず、藩によって言葉や文化も違いました。

対して海外では、民族がアイデンティティーを持って国民国家として行動していく「ネーションステート(国民国家)」に移りつつありました。

経済も、国家のあり方も、海外から遅れをとっていた日本。

これを近代化させるために行われたのが、明治維新なのです。

明治維新による改革

明治政府が行った重要な改革には、学校制度の普及鉄道の敷設、そして身分制度を打破して廃藩置県を実施したことなどが挙げられます。その後には憲法の制定議会制度の導入なども行いました。

明治政府は、基本方針として「五箇条の御誓文」を発表し、世論を尊重することなどを記しました。そして「政体書」の公布により、立法、行政、司法の3つの機関を置き、三権分立を整えました。

明治政府は天皇を国の元首とし、実質的な国政は議会が行い、議会は国家の基本理念としての憲法に拘束されることとします。これが「立憲君主制度」です。

1871年には岩倉具視を正使、大久保利通、伊藤博文らを副使とする「岩倉使節団」を欧米に派遣。西洋を研究し、その後の明治維新に大きな影響を与えたのです。

明治政府は、大名からその領土を返納させ、日本政府の直轄とする「版籍奉還」を行いました。版とは土地、籍とは人民を指します。大名たちは今でいう既得権益を失いましたが、既得権益に固執している場合ではなく、中央集権国家に進化させる必要性を悟ったのだと思います。

さらに1871年には「廃藩置県」が実施されます。藩による地方統治から中央集権に移行するため、藩を廃止し、府と県を置いたのです。当初は3府302県、直後に3府72県に整理され、中央政府から知事が派遣されました。

ちなみに、明治初期、一番人口が多かったのはコメどころ新潟です。一説には、東京の人口が最多になるのは明治30年ごろだそうです。1889年には市町村ができ、当時、その数は約1万6000でした。そこから知恵を絞って合併させ、現在は1700程度です。

資本主義に基づいて国の経済を運営するには、その妨げになる封建的な制度を改める必要がありました。その中で、重要なのは「居住の自由」です。

江戸時代、人は藩の外に出ることはできませんでした。ところが、明治維新以降はどこに住んでもよくなりました。身分制度が廃止されたのに加えて、居住の自由も認められたのです。

今では当たり前のことですが、近代化とは、そういうことなのです。

 

封建的な武士の解体によって起こったのが西南戦争です。

江戸幕府では人々を武士、百姓、町人に分ける「士農工商」の別がありましたが、これを廃絶。身分差別を否定して「四民平等」の社会になりました。

「四民平等」によって特権階級の武士は大きなダメージを受けました。

士農工商を廃止してもなお、旧士族に対して明治政府は非常に多くの家禄を与え続け、あるときには、明治政府の予算のかなりの割合を占めていました。

大久保利通らの岩倉使節団は、海外に対抗するには官僚制度と税制と軍隊が必要であり、「軍隊を持つには士族は完全に廃止しなければならない」、と主張します。

そして1876年に「廃刀令」が出され、士族の特権はなくなりました。士族による反乱がいくつも起き、その象徴に祭り上げられたのが西郷隆盛で、1877年の西南戦争で同郷の友人だった大久保利通とも争うこととなりました。西郷隆盛率いる薩摩軍が鎮圧されると、士族の反乱も終わりを告げました。

西郷隆盛は負けると分かっている戦に立たざるを得ず、西南戦争の際、自害しました。勝者となった大久保利通も、1878年、不平士族の残党に暗殺されています。

ちなみに、西南戦争が起きたのは明治維新の約9年後で、武士を廃止するのに10年かかっています。何かを変えるにはある程度の時間を要するものであり、そういう時代を経て今に繋がっているということです。

改革を進めるにあたり、大きな課題となったのが、税収の確保です。

それまでは収穫量を基本とする物納が基本でしたが、土地を基本とする税制が考えられました。

1873年には「地租改正条例」が布告されて土地は私有となり、所有者には地租が課せられることになったのです。別の面から見ると土地の所有権が法的に認められたことにより、土地の売買や、土地を担保にお金を借りることが可能になりました。

現在も、企業は保有する土地を担保に資金を調達することがありますし、個人が家を買うのに住宅ローンを借りる際も土地家屋を担保にしています。その始まりは明治時代であり、これが、資本主義の発展に繋がったといっていいでしょう。

 

税金をお金で徴収するためには貨幣制度、銀行制度を整える必要がありました。明治維新では、それらも軒並み実行しています。

まず、1871年に郵便制度が創設。貨幣制度が改められ、「円」が導入されました。

1872年には新橋ー横浜間の鉄道が開通し、電信網や船舶運輸も整備されました。

1889年には東京ー大阪間の鉄道も開通。籠で19日かかった東京ー大阪の移動を、鉄道は19時間で結びました。

1873年には国立銀行条例による第一国立銀行を設立。1882年には、通貨発行権を独占的に有する中央銀行として日本銀行が設立されました。

明治維新が始まったのは1868年ですから、矢継ぎ早にものすごいことをやっていることがわかります。

 

明治の経済政策のジェネラル・コンセプト(一般概念)は、殖産興業という考え方です。植民地にならないためには経済力を強くしなければいけない。そのためには近代的な資本主義を発達させなければならないということから、「産業を植えつけて、業を興した」のです。

殖産興業のスローガンの下、政府主導の産業育成がスタート。富岡製糸場も官営模範工場として設立され、西洋式工業技術が導入されました。当時、世界でも最新鋭の設備を備えていたといわれており、2014年には世界遺産に登録されました。

しかし財政難から、殖産興業の進め方は途中で方向転換しました。1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられたのです。

この方向転換によってむしろ民間の工業は大きく発展。1890年頃から日本でも産業革命が進行し、本格的な工業化が進展していきました。そうした経緯を経ながら、日本の財閥、企業が育っていったのです。

ところで、明治初期の頃の生活水準はどのようなものだったのでしょうか。

推計によると、一人当たり実質GDPで見た当時の国民の生活水準は現在の30分の1くらいだと言われています。現在、月々30万円の生活費で暮らしているファミリーが、1万円で暮らしていたということです。なかにはやむを得ず、子を売る親もいたそうなので、いかに大変かがわかります。今がいかに恵まれているか。時には歴史に思いをはせることも大切です。

 

明治維新は、鎖国によって西欧から大きく遅れをとっていた日本を進化させるものでした。

総括すると、近代化を進めた、しかも急激に、ということになるでしょう。

急激な近代化をどうしてなし得たのかといえば、それは「危機感」であり、危機感があったからこそ、人々は改革を受け入れたといえます。その危機感は「日本も中国のように列強の植民地にされてしまうのではないか」というものだったのですね。

 

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